昭和43年11月10日 月次祭
(途中から?)只ならない、こういうことを思って(おいだったら?)と例えば総代幹部から言われたからというのでもなくて。本当にあの、こう盛り上がってくるといったような力で、そういう働きが起っておるということは、真に有り難いことだと思います。本当に合楽のお広前のごひれいであると思うのでございます。
只今会長がいうて、話しておられました、あ、素晴らしいことを、でしたね。本教の助かり。その本教の助かりというのは、どういうようなものでなからなければならないかと、いうことをある一青年がいったということ。
とにかく何を見るの、見ても、何を聞いても有り難い。もう本当に嬉しいことでいっぱいなんだと。それは、今その人が恋をしておるからだと。ね、けれども、その恋はまた冷める時がある。そういう喜びを何時も持ち続けれる。そういう喜びを(いえ?)出来れるというところに、お道の信心の助かりが、ね。
例えば、(ぜんせんバス?)をもっておるように、何処ででも何時でもその車に乗れれる。どういうような場合でも、それこそ恋をしておる時のように喜びを失う事もない、おかげが頂けれる、そういう助かりを目指して、お互い日々信心の稽古をさせて頂いておるのだと。
ですから皆さん、その目指すところがやっぱそこでなからにゃいけない事を、今日はその会長は、明示しておりましたですね。何時でも何処ででも、有り難いなぁ。何を見ても何を聞いても嬉しい、何を見ても有り難い。そういう心持を開かせて頂く。そこんところを合楽では、朝晩に、そういうおかげを頂くためには、どうあらなければならないか。どう信心させてもらわなければならないか。どう修行に取り組まなければならないかということを、日夜そのことばかりを頂いておると思うのでございます。
ね、この事を一つが成就いたしますように。こういうことがお繰り合わせになりますようにという事だけのものではない。ね、それは頂いたおかげが、又冷えますと、もうそこには喜びも何もない。
いやむしろ神様を恨むようなことにすらなりかねない、そういう信心じゃいけないのだ。本教の助かりというのは、そういうもんじゃないのだと、いう事を強くいっております。
若い青年層の方達が、そういう真実、そういう本教的助かりをです、えー、を頂くためのいわば基礎ですかね。基礎作りに一生懸命である。これは青年会の方達だけじゃございません、こりゃ私共もやはりそこを頂き、そこを目指さなければならんのございます。
そこで、どういうような、私共は心の状態というかね、信心状態で、信心を進めていかなければならないかと。
私はなら月次祭たんびというよりも、もう毎日の私は御祈念たんびに、それをまぁ実感するんですけれどもね。例えば、毎日朝の御祈念に出て参ります。いう、まぁ一時間あまりの御祈念を、まぁこれは私がもう(ひそ?)に静かに、ここで御祈念をしま、します。その時にですね、もう満ち足りた幸せというか、喜びというか、そういう満ち足りたという、又その反面にですね、今日は果たしてお参りがあっておるだろうかという事でございます。お広前に。
今日はひょっとすると一人もお参りがあっておらんかもしれん。そういうやはり不安というものがある。道先がちょっと矛盾いたしますね。満ち足りた喜び、安心。そういうものを御神前に向わせてもろうて、心いくばかりに味合わせてもらえる。有り難い。
そういう半面に、今日はここのお広前にです、ね、お参りがあっておるだろうか、あるだろうか。それなんです。ここへ座らせて頂いて、はーおかげ頂いておったなぁと。今私が五時ちょっと前にここに下がらせて頂きますと、もうお広前にいっぱい、詰めかけておられます。
ね、お月次祭でもそうです。果たして今日は十日のお月次祭だが、神様はお月次祭をお許し下さるであろうか。それはね、塩一つまみでも、いりこ三匹あっても、お神酒がなくてもそりゃ御神水お水でもお月次祭がつかえられますけれども、現在の合楽のごひれいに相応しい、こりゃ神様の働きですよいうなら。その神様の働きに相応しいお祭りが果たして出来るだろうか。
お供えは集まるだろうか、参拝者はあるだろうか。これは私が月次祭たんべんに味わう、これはもういとわらざる実感なんです。ね、それでいて、誰が参ってこんでもええ、誰がお供えせんでも良いという、ものもあるのですよ。そういう二つのものが、私の心の中に何時も同調しておる。
教祖様がある時に、ある方が教祖様、金光様。ね、金光様、あなたは生神金光大神という高い御神格におのぼりになられて(とどかしい?)いわば有り難いことばかりでしょうというてその、ご挨拶を申した時に、教祖様が仰っておられますね。
ね「私でもね、何時神様からお暇が出るやら分からん」と仰って。ね、なら生神とまで皆に仰がれ。天地の親神様は「この方金光大神があって神が世に出た」とまで、神様からも仰がれ、氏子からも仰がれ。生神の徳を具えておられる教祖様がね、この方とても何時お暇が出るやら分からない。そこに私は金光大神の「一生が修行じゃ」と仰せられた、その一生の、いわゆるお道の信心でいう修行精神があると思う。
何時お暇が出るやら分からん。といいながらもです、ね、ならその又内容をよくよく分析するとです、ね、どうしてこのようなことが起きて来たであろうかと、何時も感動でむすんでおられます。
喜び( ? )に上げ暮れておられる。その反面にです、ね、そこにです、これですんだとは思いません。ご自分を高調なさることもない、非調なさる事のないご信心が、そこにはっきり伺われるのでございます。
お互いの信心がどうなっておるでしょうか。ね、信心頂いておるということは、本当に有り難い。この神様にさえおすがりしとけばおかげが頂けれると、確信がいよいよもりもりと頂けれるその反面またその内容を分析すると。何時神様からお暇が出るやら分からない。
何時ここのお広前がかんこ鳥が鳴くように、誰も寄り付かんようになって来るやら分からない。この十日のお祭りはこうやってにぎやかに出来たけれども、さぁ次の17日の、18日のお月次祭に果たしてそれを許されるか許されないか分からない。そこに私はね、お道の信心という、助かって行く、真実お道でいう信心、お道の助かりという。ね、の助かりはそういう中から生まれて来るんだと私は確信いたしております。
今日は、丁度3時すぎからでしょうか、「せき?」さんのところのご主人の二十年の式年祭がここでございました。初めての御霊様、お道の信心を頂かれるようになって、椛目にご縁を頂かれて、まる十年になるそうでございます。丁度なら十年目に、ご主人の今日が立ち日に当たり、しかも満20年という式年の日に当たりますので、親子の方達が色々と思いを込められて、お祭りを奉仕してくれということであった。
勿論まだ親戚の方達に、というところまで行きませんでしたけれども、只、ご主人達の親子3人、それに中村さん、秋山さん二人が、まぁ信心友達で一緒にお参りをさせて頂かれ。ほれでもう本当にこれはまぁ私、何時も思うのですけれども、御霊様のお祭りをさせて頂く時にですね、私は本当に取り次ぎ者みよりというものを感じます。
ようも金光様の先生になっとったということを有り難いと思います。ね、皆さんの例えば「せき」さん親子の喜び。同時に目には見えないけれども、御霊様の喜びが心に伝わって来る思いでございます。
もう前前から私が、(きて?)ございましたので、昨日朝の御祈念にそのことを合わせて、明日はこうこうでございますからというお願いがしてございました。そういたしましたら、昨日はもうあっち、こっちからね、菊の花のお供えがどんどん集まってくるんですよ。もう部屋中もう菊の花だらけです。
ね、そりゃもう菊の花の時期じゃからといやそれまでですけども、もう昨日に限って集まってくる。それで、これは明日の御霊様にもお供えさせて頂こうというて、まぁ昨日のから、あそこへ今日お供えさせて頂いたわけですけれども。
でその事をお礼を申させて頂きよりましたら、えー、★「喜久華」と頂いた。喜は喜ぶ。久は久しい。ね、華は華。ね、あの日華(じせん?)華の、中華(のんところ?)の華。華。
ね、ははーこれは、贈り名を頂くなと思うた。だから、神様それは贈り名のことでございましょうかというてお伺いさせて頂いたら、贈り名ではない。ね、これは、「せき」親子の心の中に、いわゆる咲く花なのである。
ね、お父さんの御霊に対して、ご主人のまぁ御霊様に対して、あれこれと心をくだかれるだけではなくて、ね、その御霊様にお礼を申し上げれるところのお祭り。お父さん二十年経ちました今日、このように子供達も成長のおかげを頂きました。ついこの頃までは、長男の、が別に別居しておられますが、もうそれはもう本当に、もう「せき」さん(たり?)親子はもうその兄さんのために、何時も修行しておられるといったような状態でした。
それはまぁ子供さんが4人も5人もおられましてね、まぁ勤め、大学を出て勤めに出るけれども、なかなかその(おやくらせ?)楽にならざるである。ですからもう、よるところなし、その兄弟のところへ頼ってこられる。ご長男でありながら、その頼ってこられるわけなんです。
もうそれは、本当にまぁお話にならんくらいでした。もう場合にはもう、それこそ(おらん時にも?)がばって持っていく。自分で、自分の勝手すれば、自分の( ? )ですから、そういうような事ももう何時もあっておった。
まぁある場合にはもう揺すられるようにその、脅かされるようにしてからその、金を渡しておられる時もあった。そのたんべんに神様にお取り次ぎを頂いて、お願いをしておられたが、ね、そういうような、例えばご兄弟があったが、最近はあるお友達の世話で、別府の方へ、ある大きな会社に、その変わっておいでられた。家族。
その先日から、あの兄弟二人で、兄さんがどういうような風にしておられるだろうか。。あちらへ行ってから、本当金っち、ともう言うてこんが、どういう風に、まぁしとるじゃろうかと思うて、二人自動車で行かれました。してもう本当にわざわざいって来ておられることはですね、もうこれを神様のおかげといわにゃおられん。
もう立派なお家に住まわせて頂いて。勿論借宅でございましょうけれども、ね、もう本当にこれならば兄さん達ももう落ち着かれた、こちら安心、これで大丈夫と、というようなそのおかげを頂いておる、そのような事も。ね。
あの、合楽のご造営、ご造営ということでもう一家をあけて一生懸命であったが。ご造営を終わらせて頂かれてから、ご自分のうちの(ほんしゅう?)を思いたたれたれた。もうそれこそ、お願いされて、様々な問題はあったけれども、木が熟したというか。それこそ、万事に神様のお働きを頂いておるねー、といわねばおられないほどの、働きの中に現在お家が建っ、新築されておる。
先日も若先生も(あの人がようがあってちょっと?)参りましてから、もう驚いたて、あーげな立派な大きな家とは思わなかった。十畳の間が今度神様の間に、2階にお神様の間が出来ておる。ね、女ながらに、言うなら女の(おくそぼで?)の中に、ね、多くの子供を育てられて、いわば二十年間。
そりゃその、中にはもう様々あった。子供の病気があった。ね、もう本当に一家が狂うてしまうような問題もあった。ね、あったけれどもです、段々信心が分からせて頂いて十年。十年経たせて頂いた今日はそのような、もうあれもおかげ、これもおかげと、お礼を申しあげなければおられない、そのおかげが「せき」一家の上に現れて来た。
丁度お父さんの20年の式年祭が今日にあたっておるので、そのお礼の、(慰霊?)のお祭り、又はご自分達としては、お父さんに対するところのお礼の思いを込めての今日のお祭りであった。
しかし私は金光様のご信心は、そうでなからなければいけないと思うですね。十年経つ、十年経ったら我とわが心を拝めたか(奉れただ?)と仰っておられる。ね、もうそれこそ有り難い感激の中にそのお祭りを終わらせて頂いたんですけれども、★お祭り半ばに私が頂きます事は、「実乗」ということを頂いた。
実というのは実る。ね、実。乗は、乗る汽車に乗るの、乗るである。ご自身のお名前が、「せき実」っていうておられた。実という字、1字である。
それはどういう事かというとですね、えー、例えば御霊様がよし助かってござらんでもです。遺族のものが助かる、子供が家内が助かっとる。いうならそこに神様、徳の船が出来た。徳の車が出来た。それにいわば便乗されるというのである。御霊様が。
とりあいずその事を神様に改めてお願いさせて頂いて、贈り名にさせて頂いた。ね、「せき実乗」。ね、いわば「せき実乗」と書いて「せき実」。喜久華ひこのれいじ。(とことこ?)の菊の季節に、しかも昨日から集まってくる、それこそお広前もあちらにもこちらにも菊でうずまるような中に、そのお祭りが仕えられた。
その菊というのは、お「せき」さん親子のいわば喜久である喜び久しい。いや、その喜久で喜びである。喜びの中にそのようなおかげを頂いていかれた。
段々金光教の助かりというものが、現実にここに浮き彫りになった来たようですね、金光教の助かりというのはですね、何処へおっても、どのような難儀、どのような苦しい中にあってもです、その苦しい事をご神意としていただかせてもらい。神様のご都合と頂いて、それを頂き抜かせて頂いくところにお道の信心がある。
そこに改めて思わせて頂けれる、あれもおかげ、これもおかげというおかげが(一箱?)にまとめられるようにして、おかげの華が咲いておる。ね、これからも、このおかげの華がいよいよ咲いて行く事であろう。続けて行くことであろう。それが実りになって行く事であろう。
ね、ならそういう信心とは、どういう信心か。只今( ? )あたりの「せき」さんのなら御信心というものを皆さんがね、それが完璧ということでもない、立派という事でもない。なら「せき」さんが、ような信心をしておられる方は合楽にはいくらもある。
先ほど、佐田さん達がご一家で、ここでお届けをなさる。今朝から、んー、今日(休みですから?)お父さんの車で、その耳納、耳納山の頂上にあのこう道路がその出来ておりますね。あちらにきは、子供達を連れて遊びにいかれるはずじゃった。
ほりゃこげん寒かとに、そりゃあんた、耳納山のてっぺんもよかろうばってん、そりゃ寒かろうて、私が言うておったんです。もう何とはなしにね、まぁいけないというような感じだったですね。
はい、そりゃまぁどうぞ楽しゅうおかげ頂くように、というような感じじゃなかった。ところがですね、もう次々その行けないようになって来るんですね。とうとう今日はいけなくなったんです。そしたら、あの一番下の「けいすけ」小学校一年生です。おかあちゃま今日はいけんじゃったのは、神様のご都合じゃね、ちいうた。
ね、もう行こうごとあった(どうじゃなくても?)子供ながらにもです、自分の思うようにならないという事もです、神様のご都合だということを分かっていきよる。ん。で今日は僕も一緒に連れて参っておるわけなんです。
ね、私はね、お道の信心のこの助かりというのはね、神様のご都合だと確信出来れることだと思うです。
今朝からも、本当に、もう本当に有り難い御理解を頂かれ。そして、実を言うたらもう大変大変、難しい難しい、もう大変な難しい、もうそれこそ宗教全般。ね、宗教一般。ね、お道の、金光教の教典の全部をここに結集してといったような風に、ような御理解だったです。
だからそれはもう、言葉も足りないけれども、それ十分ぐらいで話される話でもないけれども、何とはなしに有り難かった。どう計ったか分からんか知らんけれども、初めて今日は少年少女会の、いわば会長というでしょうかね、ここにお届けさせて頂く時に、今朝大変結構な御理解頂いて有り難かったっち、お礼ば申されて。
子供心にもです、例えばあの御理解が有り難かった、何とはなしに有り難かった。若先生が(いうた?)今日御祈念後に、お取り次ぎさせて頂いたのにも、今日の御理解有り難かった。何処が分かった、分からなかったけれども有り難かった。
そういう有り難い道にお互い縁を頂いて、しかもそういう有り難い合楽の教会にお広前に御神縁を頂いておるということが有り難かったという。
ね、そのようにまぁ、難しいいわばここに書いてあったんですね。分かってしまわなければおかげ頂かんちうことはない。それを例えば雰囲気からだけでも有り難いものが感じられればそれで、もうまぁいうならばおかげなんです。
最後に私が一言いい、すぶれておっ、そこのうておったことをです、あのすんでから又皆さんに聞いてもらったんですけれどね、例えばあの、お互いの思い違いというようなことが原因と申しましょうかね。お互いの意思が交流しない事がある。ね、親子でも。ね、こりゃ皆その、自分の思いというもが交流しない事がある。
だから自分の思いを分からせようとお互いが勤める。それは楽になりたいからなんです。自分が疑われておる。なら私は実はそうじゃなかがのとこういうて、明らかにしたいというわけである。
ね、だからまぁはーそうじゃったのうと直ぐ分かるような事もあるけれども、いうても分からん、いや分かったかと思うともう次には分からんことが起っておるというような時にはです、もういよいよ神様のご都合なのですよ。
私そのことについて、今日(いちげん、ひさんましましたのはね?)昨日私テレビをちょこっとばかり見せて頂いたんです。けどそこんところにあの、昨日じゃったか、一昨日じゃったか、テレビがあっておりましたがですね、学校の先生です。ね、生徒のお母さんは、音楽教室かなんかを開いておられる。それがその学校の先生と、その若いお母さんとが、心安いといったような風評がたってですね、いかにも三角関係のような風評がたったんです。
それでご主人がもう、焼きを起こしてからその、飲み回っておるわけです。そのご主人とばったりその学校の先生とあったわけなんです。そこで自分が明白であるころをですね、分かってもらおうと思うて、もう、その飲んでおられるのを捕まえて、その説明しようとされるわけです。
そすと、お前のような話は聞かんと、出られるのを追い掛けていかれよってから、自動車事故に合われたというところを私は見せて頂いた。
ね、それこそどんなに疑われても、どんなに例えば意思が交流しなくても、神様だけがご承知の世界に、ね、神様の教えを守りながら続け、交流、おー、日々を過ごさせて頂いておるのであるから、ね、これは神様のご都合に違いはない。あかづら弁慶になって、俺は聞かんと言うとを、まだ追い掛けてまでいって、自分の思いを分からせようとしたところに、そういう不幸が、そこに難儀があったんです。
ね、それだけ金光様のもし御信心、合楽で頂いておる人ならばです、ね、自分はそげなあそこの奥さんおかしなことはないのだから。ね、神様はご承知だから、今おき神様が分からせて下さる。その分からせて下さる間に、あれも分からせて頂こう、これも分からせて頂こうというような、信心になっておったらよかったんですね。
それを分からせようとするところに、そういう例えば運命がそこから狂うて来るのです。ね、そういう時にです、神様のご都合だと頂かにゃいかんのです。どんな場合でも。ね、神様のご都合だという頂き方。ね、それを神様を信じての頂き方。ね、そこからです、いよいよ良いものが生まれて来る。
いわば今日はその、真の道が分かってくる。ね、それが神になるのぞ。と仰るような神様になっていけれる道が開けて来る。ね、神様も喜んで下さる、金光大神も喜んで下さり、氏子もの喜びというよう喜びになって来る。
ね、そういう信心を私共が続けさせてもらう。そういう信心を身に付けていく。ほんに神様のご都合に違いはない。これほど一生懸命に真心を込めてしておるのに、向こうがそれを受け入れられないということは、これは神様のご都合に違いはない。と例えば、頂かせてもらう。
あんたどうして私のこの思いが分からんかというて、言うことはいらんということ。そういう生き方からですね、そこから例えばこう崩れてくるんです。ね、先程(まさき?)先生がお祭り前にお話しをいたしておりましたようにです、もうそれこそ一木一草の中にもです、ね、生き生きとした神様の働きがある。
しかもです、そういう一木一草の上にまで、働いておられる神様の働きを、まぁ十全とはいかんでもです、その働きを現しておられるのが合楽の親先生だと。というような意味のことをもっと素晴らしい言葉で言っていましたですね。
親先生がここに赤いもんがいい、欲しいなぁと。あ、石庭が、見事な石庭が出来た。だから、私がこう、私にいっぱいその、庭をひろうしよるたい。それで菊栄会の5、6人でまぁやらせて頂いた。ほんに見事。けどもあそこに、何か赤いものがいっちょあると良いなぁと言わせて頂いて、まぁ本人もそうだなぁと思うたかどうか知らんけれども、それから一週間ばっかりしたらそこに赤い、だいたいは赤くならないはずの木が赤くなってきた。
毎年毎年、もう必ずあそこに、ね、それこそ夏の赤いものを紅葉するものがない時期に、あそこにもし紅葉するものがある、出来てくるなら、これはもういよいよ、あれは親先生のお徳だということになるだろうと。
ね、この頃あの何とか(大仏寺?)とか何とかお寺へ行きましたが。ね、あのお寺さんの(かいそう?)の時代に、おばあさんがお供えされた桜が、年々例えば今ごろ咲く。しかも又(ゆき?)四月には又咲くというような、その(いわれ?)のある桜がありましたもん。やはりお徳だとこう思うんです。
ね、そりゃなるほど一木一草にも命がある。その一木一草の命がある、働きがある、その働きをね、ここに現しておるということなの。ある事だけが分かったちゃでけんのだ。ね、そういう働きの中に起っておること。いうならば、親先生の御取次ぎの働きの中に、起きておる事であるから、痛い事だって痒いことだって神様のご都合に違いはないという頂き方なんです。
ね、神様のご都合に間違いないと、ね、その内容としてです、私が今日申します、ね、本当に毎日が信心頂いておるということは何と有り難いことであろうかというその反面に、果たしてね、明日も生きられるであろうか。果たして、明日は食べれるであろうか。ね、果たして、今晩の月次祭が奉仕させて頂ける事が出来るであろうか。なら毎日毎日の朝の御祈念をこうやって、奉仕させて頂いておるが、今日は果たしてお参りはあるだろうか。
私は何時もそこんところが分からないんです。あるやらないやら分からんて。ね、ですから、どれ、どこと例えばここを埋め尽くすほどのお参りがあっては、私の信心だというて慢心するわけにはいかんのである。神様のご都合なのだから。
というてです、んならここに一人もお参りがなくなった。いやお月次祭も寂しいことになってきてもです、私は驚かない。神様のご都合なのだから。ね、そういう頂き方がその内容の中にです、ね、神様のご都合だという頂き方の中にそれがいよいよ生き生きとしたものになってこなければならないと思うのでございます。
ね、どうぞ確かにお道の信心によっての助かりとはどういうような事なのか。ね、それをまず分からなければいけません。電線バスと同じ事。何処ででも乗れれるんだ。何時でも、何処ででも。そういう切符をお互いが手に入れなければいけない。
ね、只恋をしておるから何を見ても、何を聞いても嬉しいんだ、有り難いんだというのは、冷めたらもうそれまでである。
私最近、痛切に感ずる事はですね、本当に教えに取り組むということ。例えばね、いよいよ大きく、いよいよ豊かにと、例えば年頭の御理解の中に頂いた。それを私の、今年のかけ守りのように頂いておるけれども、いよいよ豊かになろう、大きくなろう。取り組めば取り組むほど、自分が小さいことに驚くのでございます。自分の豊かさっていうものじゃなくて、貧しさに驚くのでございます。
限りなく美しゅうならせて頂こうと。本当に限りなく美しゅうならせて頂こうということに取り組んだら、美しゅうなれるのではなくて、もうますます自分の(身分?)の(しさしさ?)なさが、はっきりクローズアップされてくるのです。
心に光が灯るから、その光がですね、いわば自分の今まで気が付かなかった見苦しいところまで、光の中に照らし出されてくるからなのです。そういう生き方なの。ね、そういう生き方の中に、私はいよいよお道でいうところの助かりがね、与えられる。という風に信じさせて頂く、思うのでございます。
ね、どうぞ、17日でしたね。(青年?)17日の(青年会?)もうとにかくもう現在30名あまりの青年会義がありますでしょう。何時も集まってくる。ね、その人達が一生懸命でです、お互いのね、同じ合楽のお広前にご縁を頂いておる親兄弟、それにまだ子供がお広前にお引き寄せを頂かない。お参りが出来ない。そういうような事がないように、もうお互い合楽にご神縁を頂いておる、いや、あー、これを境にですね、格部落部落、椛目あたりでは、昨日は20人か30人か集まったそうなんです。部落の青年まで皆集まってきて。ね、それはですね、親子さん達が見てから、聞いてから、はーこういうような会合に出すなら、家の息子も心配はいらんというておられます。
ね、そういうような働きがですね、合楽のいわばごひれいの元に行われようとしておるのでございますから、ね、青年会だけに任せずに、お互いもお祈りぞえは勿論、ね。自分の周辺の若い人達が、あんならその会合に出されるということだけではなくて、皆さんもその日は出てきてです、ね、何なり御用でもあらせてもらうならば、御用させてもらおうというようなね、私は雰囲気を作って下さることが有り難いことになると思うんです。どうぞ。
梶原 佳行